■743■ 9月20日


1978年にバンコクから香港に単身赴任しました。1980年に中国が長年続いた鎖国状態を解除、門戸を開くというニュースがあり、中国ビジネスに備えるためです。家族は学校の関係があり、バンコクに残しての赴任です。


当時は朝日新聞を購読していました。最初の頃はやはりOCSが日本で印刷した新聞を配達していたように記憶しています。その後シンガポールで印刷するようになり、より早く日本の新聞が読めるようになりました。シンガポールのストレートタイムズ社が印刷していた都合上、紙面が国内版より縦長になっていた記憶があります。


当時の香港は英国領で、エキゾチックな街の雰囲気が漂っていました。香港サイドのウオーターフロントには、まだ高層ビルがそれほどなく、唯一、湾仔にホープウエルセンターが建築中でした。このビルは円形で、最上階に回転レストランがありました。九龍サイドから見てもよく目立つビルでした。香港サイドのウオーターフロントに連なるビルの屋上には日本企業のネオンサインが大半でした。当時の香港ネオンは市街地にある飛行場の関係から点滅が禁止されていましたので、点滅しないネオンサインは香港の独特の夜景を醸し出していました。


街まだそれほど洗練されておらず、下町の湾仔などでは、早朝パジャマを着た人たちが買い物をする姿が常態でした。遅れてやってきた家人はそれを見て「やはり香港風邪の本場だけのことはある」と勘違いをしていたのが懐かしく思い出されます。


仕事を始めた中国大陸は、見るもの、聞くものすべては驚くばかりの時代遅れでした。最初に中国広東省に出張した時は、まだ国境が開かれていない時期で、中国側からのインビテーションレターをもらっての訪中でした。国境の駅深センで乗り換えた中国の鉄道は、僕が目にしたことのないほど古い車両で、軟座という座席の切符が面白かった記憶があります。到着した広州駅ではイミグレーションカードがフランス語しか用意されていなかったのに戸惑った思い出もあります。当時の日本の新聞の論調は、鎖国を廃止した新生中国は巨大マーケット発展し、過大な可能性を秘めているというものが大半でしたが、僕が実際にみた大陸中国は、早急にはその期待に答えられる国ではないという確信でした。


街は自転車の洪水で(道路いっぱいに自転車の波が広がっており、その間隙を自動車がクランクションを鳴らしながら、自転車の群衆をかき分けのろのろと進んで行くという時代錯誤ぶりでした。とてもこの国が日本の新聞が報道するような、ポテンシャルのあるマーケットとは実感できない街の様子や、人々の姿でした。唯一感心したのは人口の多さと押し寄せる自転車が作り出す潜在する活力でした。

しかし、中国はそれを20年余りでやり遂げました。中国人の持つ秘めたる行動力は21世紀の奇跡といわなければなりません。


当時はテレックスに変わってFAXが主流になっていく時代です。


携帯電話やインターネットの出現はまだ少し後の話です。



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# by newsaki | 2018-09-20 19:04 | 2018