■639■ 5月18日
「お伊勢さん」

どうも僕は2度目、3度目に見たことや、味わったことに対する感激が、最初に見た時の衝撃との落差が他人より濃い質のようです。
今回行った日本のあちこちで味わった多くの食べものや、見物にした場所にそれほど感激しなかったいというのが偽りない感想です。ネギの臭さや、トマトの青臭さがなくなってしまっているのは我慢するとしても、名所旧跡を訪ねても、それほどの衝撃はなく、なんとなく以前見た景色の連続であり、それを始めて見た時の大きな感激が蘇って来ません。
「お伊勢さん」もそのひとつです。記憶が曖昧で、僕が最初にお伊勢さん参りをしたのは確か中学一年生の時、学校の遠足だったのではと記憶しています。この時、伊勢神宮は天照大御神を祭った神聖な神社で、それ以来何千年もその形式を継承されている日本のルーツを知る唯一のありがたい場所だという、引率の先生の教えが実に素直に僕の意識にインプットされ、鬱蒼と茂る大木の森は、子供の目線で見たこともあって実に大きく高くそびえ立っており、霊験あらたかであり、静寂であり、今の言葉で言えばパワーポイントであり、厳かでありました。

伊勢神宮参拝は今回が二度目ですが、感激はそれほどでもなかったのが不思議です。もっと期待に夢ふくらませた再訪だったのに、実際に境内に立ってみると、僕の身長が伸び、子供時代より目線が高くなったことだけがその原因ではないでしょう、うっそうと茂る大木やむせ返る新緑はそれほどのインパクトをもって僕に迫って来ません。
初めての伊勢神宮参拝の後、僕はそれ以上の大きな大木を見ましたし、歴史の時間を言えば、それより何千年も前の人類の起源の存在を示す場所に立ちました。今回の伊勢神宮参拝に、子供の頃のあの強烈な感激が蘇ってこないのは、僕の方が変質してしまっているからなのでしょうか。
僕は常々こう考えています。人生で一番大切なことは、いつまでも子供の目で見、考え、行動することだと。子供が常に純粋だと言っているわけではありません。歳を重ねるごとに人間はいろいろな経験を積み、いろいろのものを見、味わい、思考を重ね、人と交わり、
人を好きになり、挫折を味わい、だんだんと子供時代の自己から変質していきます。所期の目的を逸脱し、徒党を組んだり、離反したりの経験がどれだけ自己の独自性をなくす原原因になっているかを真摯に考える必要があると思っています。いや、人生で一番大切なことは、いつまでも自主性をなくさないことだと確信しています。
まっ裸の姿で、スタートラインに着き、ハイハイで前進し、ヨチヨチと立ち上がって走りだし、そのうち全速力で走り出し、時々立ち止まり、また全速力で走り、息切れがし、立ち止まり、そのうち力がだんだんと衰えてきて、自分を追い越して行く人物が現れだして、他人の存在を知り、そうすると他人の目が気になりだし、自分は今何のために走っているのかが疑問になり、だんだんと後ろが気になりだし、そして立ち止まる。しかし、そんな疲れきって世間の垢に染まった僕のそばを、しばらくすると裸の幼児が追い越していく、そんな姿を見たくないというのが僕の人生観です。
何も、ウサギとカメの寓話を話しているのではありません。成長して結婚し、子供に恵まれ、そこそこの収入を得て、幸せな家庭を築いていても、自己の主張や、物の見方を変えてしまった自分には、それほどの価値がないということです。そんなささやかな幸せは、多分外から見た幸せで、内面は自己犠牲を強いた結果のうたたかなのです。
もちろん人の内面は計り知れません。しかし、物事を根底に帰って見るという姿勢は、常に意識して持ち続けたいものです。では、深山霊谷で仙人のように生活すればいいかというとそうでなく、現実世界に身を置き、なお世間の垢に染まらず、孤高をたもって毎日を生きる心情が大切だと言っているのです。
人は変質します。それを成長と呼んだり、進歩と呼んだりして、変質を肯定するのは、何か大切なものを失い事ではないかと、今回の日本滞在で強く感じました。今の日本では全てのジャンルの人たちが独自性をなくしてしまったのではないかと思うほど、枝葉末節ばかりを語って、本質に迫る努力をしないことが社会的コンセンサスを得ているように見えて仕方かありません。
政治家も、テレビも新聞も、何かすでに社会コンセンサスを得たことを、ちょっと色を添えて語るだけで、そこには新しい概念を切り開いていくという気概が見えません。新味がありません。手垢に染まった論理を小手先で目先を変えても、本質には迫れません。何だか日本中が欺瞞と、諦念に包まれて、最小の範囲でささやかな幸せを語っている様に見えます。炉辺の暖かさを幸せと感じているのでは、未来に限界が見えてきます。一度全面的にリセットして、新しい概念を生み出す努力が必要ではないかと痛感します。
伊勢神宮の広い玉砂利の道を歩きながら、僕はそんな実生活にはどうでも良いことを、しかし真剣に考えながら歩きました。長い永い参道をです。僕は7年ぶりの日本です。
「お伊勢さん」

今回行った日本のあちこちで味わった多くの食べものや、見物にした場所にそれほど感激しなかったいというのが偽りない感想です。ネギの臭さや、トマトの青臭さがなくなってしまっているのは我慢するとしても、名所旧跡を訪ねても、それほどの衝撃はなく、なんとなく以前見た景色の連続であり、それを始めて見た時の大きな感激が蘇って来ません。
「お伊勢さん」もそのひとつです。記憶が曖昧で、僕が最初にお伊勢さん参りをしたのは確か中学一年生の時、学校の遠足だったのではと記憶しています。この時、伊勢神宮は天照大御神を祭った神聖な神社で、それ以来何千年もその形式を継承されている日本のルーツを知る唯一のありがたい場所だという、引率の先生の教えが実に素直に僕の意識にインプットされ、鬱蒼と茂る大木の森は、子供の目線で見たこともあって実に大きく高くそびえ立っており、霊験あらたかであり、静寂であり、今の言葉で言えばパワーポイントであり、厳かでありました。

初めての伊勢神宮参拝の後、僕はそれ以上の大きな大木を見ましたし、歴史の時間を言えば、それより何千年も前の人類の起源の存在を示す場所に立ちました。今回の伊勢神宮参拝に、子供の頃のあの強烈な感激が蘇ってこないのは、僕の方が変質してしまっているからなのでしょうか。
僕は常々こう考えています。人生で一番大切なことは、いつまでも子供の目で見、考え、行動することだと。子供が常に純粋だと言っているわけではありません。歳を重ねるごとに人間はいろいろな経験を積み、いろいろのものを見、味わい、思考を重ね、人と交わり、
人を好きになり、挫折を味わい、だんだんと子供時代の自己から変質していきます。所期の目的を逸脱し、徒党を組んだり、離反したりの経験がどれだけ自己の独自性をなくす原原因になっているかを真摯に考える必要があると思っています。いや、人生で一番大切なことは、いつまでも自主性をなくさないことだと確信しています。
まっ裸の姿で、スタートラインに着き、ハイハイで前進し、ヨチヨチと立ち上がって走りだし、そのうち全速力で走り出し、時々立ち止まり、また全速力で走り、息切れがし、立ち止まり、そのうち力がだんだんと衰えてきて、自分を追い越して行く人物が現れだして、他人の存在を知り、そうすると他人の目が気になりだし、自分は今何のために走っているのかが疑問になり、だんだんと後ろが気になりだし、そして立ち止まる。しかし、そんな疲れきって世間の垢に染まった僕のそばを、しばらくすると裸の幼児が追い越していく、そんな姿を見たくないというのが僕の人生観です。
何も、ウサギとカメの寓話を話しているのではありません。成長して結婚し、子供に恵まれ、そこそこの収入を得て、幸せな家庭を築いていても、自己の主張や、物の見方を変えてしまった自分には、それほどの価値がないということです。そんなささやかな幸せは、多分外から見た幸せで、内面は自己犠牲を強いた結果のうたたかなのです。
もちろん人の内面は計り知れません。しかし、物事を根底に帰って見るという姿勢は、常に意識して持ち続けたいものです。では、深山霊谷で仙人のように生活すればいいかというとそうでなく、現実世界に身を置き、なお世間の垢に染まらず、孤高をたもって毎日を生きる心情が大切だと言っているのです。
人は変質します。それを成長と呼んだり、進歩と呼んだりして、変質を肯定するのは、何か大切なものを失い事ではないかと、今回の日本滞在で強く感じました。今の日本では全てのジャンルの人たちが独自性をなくしてしまったのではないかと思うほど、枝葉末節ばかりを語って、本質に迫る努力をしないことが社会的コンセンサスを得ているように見えて仕方かありません。
政治家も、テレビも新聞も、何かすでに社会コンセンサスを得たことを、ちょっと色を添えて語るだけで、そこには新しい概念を切り開いていくという気概が見えません。新味がありません。手垢に染まった論理を小手先で目先を変えても、本質には迫れません。何だか日本中が欺瞞と、諦念に包まれて、最小の範囲でささやかな幸せを語っている様に見えます。炉辺の暖かさを幸せと感じているのでは、未来に限界が見えてきます。一度全面的にリセットして、新しい概念を生み出す努力が必要ではないかと痛感します。
伊勢神宮の広い玉砂利の道を歩きながら、僕はそんな実生活にはどうでも良いことを、しかし真剣に考えながら歩きました。長い永い参道をです。僕は7年ぶりの日本です。

